子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月3日(火)私の平和教育その3

5月3日(火)私の平和教育その3

「『昔とこれから』と、そのあとの『昔とこれから』と」

 1983年の正月、国分一太郎さんの自宅で新年のご挨拶をかねて、研究会を開いていた。月に2回ほど、国分さんの自宅で、勉強会を開いていた。席上、国分さんから、「来月は神戸で記念講演をすることになった。何か共産党の諸君が、私の記念講演に反対していると聞いている。」どこで手に入れたのか、各県の共産党系の組合宛に出された「指示文書」を、国分さんが手にしていた。その内容は、日教組教育研究集会の記念講演をするが、その時には退場をするというような指示文書であった。その文書を手にしながら、我々に語ってくれたのである。その話を聞きながら、私もその教研集会に参加しようと決めた。
 国分さんが、除名されたのは、ソ連や中国の核実験の成功をめぐって、評価が割れた。日本国内では、当時中国寄りだった日本共産党が「部分的核実験禁止条約」の批准に反対、賛成した志賀 義雄、鈴木市蔵らを親ソ連派として除名。志賀らに同調したとして中野重治も除名 。野間宏、佐多稲子、国分一太郎、丸木位里・俊夫妻、佐藤忠良、出井隆らは除名に反対するが、党は彼らも除名した。1964年の年である。このことについては、「いつまでも青い渋柿ぞ」国分一太郎著(新評論)の19「ツツジの土地」(新日本文学界で味わった悲しい政治の話)に詳しく出ている。
 除名される前は、国分さんは共産党の文化部副部長もされていた。私が、墨田区の小梅小に勤務することになったとき、「あそこには、共産党員の教師が5人くらいいて、その頃オルグにいったことがある。」と、国分さんから直に聞いた。また、長野県に講演に行ったときに、大型バス50台くらいで私の演説を聴きにくる党員新派がいたこともあったと、話してくれた。それにしても、いかなる核実験にも反対した人々を除名したことを、共産党は、どう評価しているのだろうか。ソ連中国を中心とした共産主義陣営対アメリカ中心の資本主義陣営の対立の中でも、世界で唯一の被爆国日本は、「いかなる国の核実験も反対」という考えは、いつの時代でも正しい考えではないだろうか。
 2月5日、兵庫県神戸市で開かれた日教組第33次・日高教第30次教育研究集会全国大会全体会で記念講演「『昔とこれから』と、そのあとの『昔とこれから』と」 と言う演題であった。 国分さんが司会者から紹介されると、全体会の出席者が、何十人も、立ち上がって会場を出て行った。私の席の斜め前に、共産党系の埼玉県高教組の委員長のYさんが座っていた。国分さんが、壇上に現れると、すくっと立ち上がって、退場しようとした。「おかしいじゃないか。」と、私も大声を出していた。そのまま、外へ出て行った。「何で無礼なことをするんだ。」と、色々なところで小競り合いがあった。国分さんは、静かに舞台中央に歩いて、話をたんたんと始められた。同じような光景が見られたが、私の想像以上には、退場する人は少なかった。
 話の内容は、昔の貴重な事実を掘り起こし、それを後世に伝えていくことの意義を強調された。その話に勇気をもらい、自分が実践している平和教育に大きな自信と確信を持つことができた。今から32年前の国分一太郎さんの訴えであった。

戦争の聞き書きを進めるために

指導題目 

「年配の人から、昔あった心に強くのこったことを、聞き書きの形でていねいに書いてみよう。」祖父母の子ども時代、戦争体験が聞ける人は、ぜひ取材をしてみる。

保護者の方へ

 こどもたちに戦争体験の聞き書きを休み中の課題にしました。身近なところにいらっしゃったら、こどもたちに情報を提供していただければ、ありがたいです。田舎にご両親や祖父母の方がご健在であったら、事前に連絡をしておいていただくと、こどもたちが取材するのに、大変助かりますので、よろしくお願いいたします。子供さんと、一緒になって、お話を取材されてもかまいません。

みなさんに

 最初に、自分の身近なところにいる方で、戦争体験をされた方がいらっしゃる方をさがす。家の人や近所の人に聞く。祖父母が近くにいたり、いなかにいたら、電話などで確かめておく。あらかじめ、取材に行く前に、事前に訪ねて、お聞きする内容をお手紙やメモの形にして、お渡ししておく。このようなお話のできる方は、現在七十才(戦争に負けたとし、十二才)以上の方です。東京大空襲や兵隊の体験者の話が聞けたら、すごいことです。(1984年実施)

取材指導・記述指導の前に   [#t988a1df]

一つの例(この通りでなくて良い。自分で質問することを、メモして、相手に手渡しておく。)
①いつどこで、お生まれになったのか?
②その時のご家族は、何人おられたのか?
③その後、ご兄弟は何人になられたのか?
④ご家族のお仕事は、どんなことをされていたのか?
⑤小学校に入学される前の心に強く残る思い出があれば、いくつかお話ください。幸せだった家族として、時代のことを、たくさんあると思われますが、今なつかしく鮮やかに残っておられることがあれば、お話ください。
⑥何年になんという小学校に入学されたのか?
⑦その時代は、戦争前で、どんな暮らしを人々は、していたのか?
⑧学校で行われていた教育は、どんな教育が行われていたのか?ご自分が受けられた教育を、具体的に思い出してお話ください。
⑨一九四一年十二月八日太平洋戦争開始のときは、何才であったか。また、そのニュースをどのように受けとめておられたか。  
⑩一番こどもたちに語りたいことはなんでしょうか。

書くとき(記述)

①小見出しを書き、分けて書く
②「・・・だそうです。」という(伝聞推定)書き方はせず、「・・です。」「・・ました。」と「歴史的過去形表現」にする。
③できるだけ、心に残る言葉は、会話の形にする。
④会話の後に、「・・・と言いました。」と言うだけでなく、そのしゃべっている、相手の顔の表情や声の調子などをじっくり観察して、そのことを思い出して、書き込めるとすばらしい。
⑤その話を聞いていて、そのとき感じたことや思ったことは、文章の中にはさみこんで書いていく。
⑥難しい言葉は、説明をいれて書くようにする。
 このような事前学習をして、夏休みの課題とした。

原博おじさんの戦争体験 墨田区立小梅小学校 五年 中山 建人

 僕の家の知り合いに、江東区に住む原さんという八十六才のおばあちゃんがいます。博おじさんは、そのおばあちゃんの長男で六十三才、ぼくの大好きなおじさんです。
 ぼくが初めておじさんにあったのは、五才の幼稚園の頃です。原おばあちゃんが病気で二ヶ月くらい入院して、その病院がぼくの言っていた幼稚園のそばでした。ぼくは、毎日帰りに母と一緒に、お見舞いによって、その病院で博おじさんに会いました。おじさんとは、何階もあってもあっていますが、おうちをおたずねしたのは、五階くらいしかありません。おじさんは、踊りや歌が上手で、やさしくて、
「子どもは、うそをつかないから好きだ。」
と言います。いつもぼくに、何か珍しいものがあると、わざわざ、届けてくれたり、ぼくのお礼の手紙には、きちんと返事などを下さいます。
 このおじさんが、戦争に行ってきた人だと言うことを母から、ひょいと聞きました。ちょうど、ぼくは、国語で「お母さんの木」という戦争の話を勉強していました。
「お母さんの木」には、七人の息子を次々に戦争に取られ、そのたびにきりの木を植えてその木を育てながら、帰りを待っていたお母さんのことが書かれています。その息子達は、次々に戦死して、たったひとりだけが帰ってきたとき、お母さんはたおれていた。と言うお話です。ぼくは、戦争のことが聞きたくて、さっそくたくさん質問してみました。おじさんは、一つ一つていねいに文章やテープのお話にして応えてくださいました。

おじさんの入隊

 昭和十六年、十二月八日、日本はハワイ真珠湾を奇しゅうしました。そして日本とアメリカ、イギリスの連合国と太平洋戦争が始まりました。
 おじさんは、満二十才で赤紙を受けずに、戦争に行きました。その頃男子は二十才になると、ちょうへい検査を、区役所で受けました。それで甲種合格になると、全員入隊するのです。甲種合格とは、健康で、身長、体重。視力などが、それぞれ基準以上と言うことで、下に乙種、丙種に分かれていました。おじさんは、甲種合格になり、東部六部隊、あざぶ三連隊へ入隊しました。

最初の訓練

 初め初年兵と言って、学校で言うと一年生の各部屋に十二,三名入ります。軍隊の中はきまりがきびしくて、何かというとすぐほっぺたにげんこつでぶんなぐられました。例えば言葉づかいです。上の人に呼ばれたら、「はい○○○○どの。」の「はい。」が小さいとなぐられます。
 また、できるだけかんけつにはなさないとなぐられます。といれにいくのに、「中山、便所に行ってきます。」帰ったら「行ってきました。」というのです。言い方が悪かったり、声が小さくてもなぐられます。ずらっと、横一列にならんで順にひっぱだかれるので、初めの人は痛くても、最後の人は、それほどでもなくなります。なぐる人がつかれてきてしまうからです。
 朝は、六時に起床ラッパで起きます。一分ぐらいで制服をつけて外に出て、すぐ上半身はだかになり、かんぷまさつをします。食事のあとで休む間もなく訓練があります。それらは、敬礼が一ばん最初です。軍隊帽をかぶり、真っ直ぐのしせいで、斑づきの上等兵の号令で、右手を目の横ななめ、ひじをぴんとはって敬礼です。帽子をかぶっていない屋内では、真っ直ぐのしせいからこしを十五度の角に曲げる礼です。
 ぼくは、こんな敬礼の仕方をなぜ決めたのだろうかと思います。それが出来ないとなぜ、ぶんなぐられなくちゃいけないのでしょうか。
 次に、右向け、左向け、前へ進めと歩くこと、それが終わると、鉄砲の打ち方とかです。動作が一分早くても一秒おそくても、斑づきの上等兵または、下士官にすごい勢いでなぐられるのです。手だけでなく、ベルトやくつも使います。
「痛い。」とか、声を出すとよけいになぐられるので、みんな歯をくいしばってがんばるのでした。歯をしっかりかんでないと、口の中が切れてしまうと榎本先生が、教えてくださいました。
 軍隊と言うところは、本当にきそくずくめだったんだなあとびっくりします。

中国(天津)での出来事

 おじさんが初めに行った所は、中国の天津でした。そこでは、家の人から送られてくるいもん袋が楽しみでした。その中に入っていた、お菓子などを中国の子どもたちに分けてあげたりして喜ばれたりしました。
 おじさんは、二年目で上等兵、また少したって、兵長に、それから伍長にと進級しました。
 中国は、広くて八路軍や馬賊とか匪賊とか、日本の昔の山賊のような人たちの集団がありました。その人達は、定期便のような輸送車をおそって荷物や色々なものをうばっていました。日本軍のトラックが通りかかったとき、ちょうど八路軍は、いつものようにおそったのです。そのトラックには、日本の兵隊が二十人位乗っていて、おじさんの仲良しの四人の戦友も乗っていました。そして、十六人の人といっしょになくなりました。初年兵でいっしょに入った気の合う。大の仲良しでした。
「生きるのも、死ぬのもいっしょだよ。」
とちかった同期の友だちに死なれたことは、おじさんの一生で一番悲しいことでした。ちょうどおじさんは、大隊本部の衛兵要員として、大隊本部へ連絡に行っていたので、きせきてきに助かったのです。
 戦地では、このようにいつも死ととなり合わせでした。その後、部隊は満州に転進しました。そこでおじさんは、憲兵隊に所属しました。憲兵隊は、軍隊の中の警察という役目です。町を守ったり、スパイやきそくをかんりする仕事で、非戦とういんです。つまり、ちょくせつ戦とうには、加わらない役目です。

フィリピンでの出来事

 軍隊は、いつも司令部の命令で、異動します。おじさんは、まもなく南の方に転ぞくするために、船に乗せられ、着いてみると、フィリピンのマニラでした。そこでも憲兵隊司令部に所ぞくしました。戦いは、だんだんはげしくなり、アメリカ軍の攻げきも強く、日本軍は、だんだん山の中に追われて行くようになりました。
 山の中では、つらいことばかりでした。アメーバ赤りにかかり、マラリアで死にそうになったりしました。アメーバー赤りは、川の水を飲むことによってかかる病気です。水がないので、川の水を使い、川上から川下へと次々に病気が広がって、食べ物も、薬もなくみんな「戦病死」していくのでした。
 おじさんも、この病気にかかって動けず、山の中の一けんの小屋でじっとしていました。おじさんは、持っていた「クレオソート」を飲み、あとは飲まず食わずでじっとねていました。
 マラリアとは、蚊にさされて高い熱が出て息苦しくなり、食べ物がのどを通らなくなって、うわごとを言いながら死んでしまう病気です。おじさんは、それほどひどくなく、熱で苦しみながら、
(ぜったいこんな所では死ねない、母さんの所へ帰るんだ。)
と自分に言い聞かせて、
「母さあん。」
とさけんだ時、元気をとりもどしました。マラリアにもアメーバ赤りにも負けず、よごれたままの軍服とズボン、ただ必死で山の中を歩き通しました。草の根を食べたり、トカゲを食べたりしました。
 山の中で、フィリピンにある日本の会社につとめていた人たちと会いました。この人たちも病気や飢えで次々と死んでいきました。
 ある女の人は、夫と子どもをなくし、一人になって生きていてもしかたないから、そのピストルでうって殺してほしいと言いました。この女の人は、けっきょくなくなってしまったのがわかりました。おじさんは、部下に手伝わせて、ていねいにほうむってあげました。
 死んでいった兵隊に出っくわすと、浅く土をほって、その場にねたまま土をかけてほうむりました。家族に知らせるためには、その人の小指だけ焼いて、その骨を小箱に入れ名前といっしょに保かんしました。
 おじさんは、心の底から戦争のこわさ、おろかさを感じて悲しく思いました。

捕りょ

 昭和二十年八月十五日、日本は、アメリカ、イギリス最後にはソ連まで加わった連合国との戦争に負けたのです。このことをおじさんは山の中の憲兵隊司令部で知りました。戦争が終わっても、すぐには日本に帰れず、きょうせいてきにアメリカ軍の捕りょになって、収容所に入れられ働かされました。毎日、作業をやらされて、アメリカ兵にこん棒でなぐられたこともありました。ある日、
「何かやろうよ。」
と言うことになり、おじさんは歌に自信があったので、申し込み用紙に記入して、演芸部に入りました。そして「青春日記」というげきをやりました。
 部隊を作り、着物はメリケン粉のふくろで作り、色は花でそめたり、かつらをあさなわを一本ずつそろえてほぐして作りました。げきを演じると、みんな涙を流してじいっと見つめていました。おじさんは、このげきの歌の作曲をして、主役の妹役をし、歌ったりしました。作詞をした人は、西野さんと言って、荒川区の人でした。この人は、帰国後十二年くらいあめ屋をしていました。ガンという恐ろしい病気でなくなりました。その後、おじさんは、西野さんの三人の娘さんの結婚式に招かれました。その式で三回とも、
「これがお父さんの作詞した歌ですよ。」
と言って歌いました。するといつもおくさんと三人の子どもさんも、涙をポロポロこぼして泣いていました。

帰国

 やがて、日本からむかえの船が来て、日本に帰されることになりました。二十一年ごろ「リンゴの歌」という歌を名古屋港の復員船の上できいて、
(日本に帰れたんだなあ。)
と思って心で泣きました。復員局で、
「東京は全めつだから、行ってもだめだ。」
と言われて、
(ああ、もう家族は死んでしまったのか、東京へ帰ってもだめだろうから。)
と、かくごして、群馬県のお父さんの実家へ行ってみました。なんとかお母さんだけは生きていてくれと、神様に祈りながら、大勢そかいの人がいるというお寺に行ってみました。着いてみると、懐かしいお母さんの声がしました。
 目の前に、三だんのお寺の階だんがありました。おじさんは感動で足が動きませんでした。それで後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。言葉は出ませんでした。
「だれなの。」
と近づくお母さんにやっと前を向くと、お母さんは、はだしでとびついてきて、
「五年待ったんだよ。毎日毎日まっていたんだよう。」
とおじさんにしがみつきました。お母さんは、ワアワアと泣きました。
 家族は、無事だと言うことを知りました。それを聞くと、おじさんは、何も言えず、ただ泣くだけでした。

焼けあとの東京

 おじさんは、十三才の時から、お父さんに仕事を教えられ、手に職をつけていました。ガラスのお皿やコップに、もようをきざむカットガラスという仕事です。それが始められるというので、一年ぐらいで一人で東京に出てきました。墨田向島一丁目の家は燃えずに焼け残っていました。その家には、お母さんといっしょには、そかいしなかったお父さんと妹二人が、ずっと住んでいました。おじさんは、お父さんと妹二人と四人でくらし始めたのです。
 東京は焼けて食べ物もなく、ひどい状態でした。焼けあとを掘って鉄くずや、ガラスくずをあつめるもの、食べ残しの食物を拾い集めるもの、子どもたちは、かっぱらいやスリをやったりしていました。
 戦争で親をなくした子どもたちが、上野の山などにわんさといました。めんどうを見てくれる人はいないので、グループを組んで食べるためには、なんでもしたようです。昼は、くつみがき、夜は駅の地下道で寝て、服はよごれ、おふろへ入らないので、かみのけもボサボサ、しらみ(虫)が住みついてしまうのです。
 こんな状態は、ぼくにはそうぞう出きません。住む家もなくて、子どもだけで、毎日、本当にくらせたのだろうかと不思議です。こころぼそくて泣いたり、おなかがすいて泣いたり、けんかもあったと思います。昔の子は、生きていく力がすごいと思いました。
 その後、この子たちは戦災孤児として、いろいろなし設で、りっぱに育てられたのです。

おじさんのうけた教育

 おじさんの小さいころは、
「男の子は、かならず戦争へ行って兵隊になるのだから。」
と、強く正しくと教えられました。また、体をきたえる運動や剣道、柔道などもきびしくしごかれました。
「戦争になったら、喜びいさんで行ける人になれ。」
と、そればかり心がまえを教えられたのです。
 科目は、「算術」「読み方」「修身」「図画」「唱歌」「操行」とかです。男子と女子はいっしょに並びません。男子はいつも女子より上と教えられ、学校でも家でも、男子はとくべつに大事なあつかいを受けました。
 兵隊に行くことになった時、おじさんは、人がいる前ではうれしそうにして、一歩外へ出ると、とたんにがっくりしました。お母さんが、心から喜ぶはずがないと思ったからです。
 今は、あんなところ(軍隊)へ行くのはいやです。これから若い人にはぜったいに戦争には参加してほしくありません。このことを忘れずに、とおじさんは強く言っておりました。   
ぼくの思うこと
「赤紙」を見せてもらいました。おじさんは、赤紙が来て戦争に行ったのではありません。手元に持っていたものです。ぼくには、むずかしくて全部は読めませんが、「臨じ召集令状」と書いてありました。次の所には、名前を書く所、とう着地、召集部隊。うらには、びっしりと注意や心得、しょち、刑罰などが書いてあります。これをもらうと、どんな人も軍隊に入らなければなりません。乙種合格の人にも、年の多い人にも、戦争がひどくなると、ほとんどの家々に赤紙が来ました。「学徒出陣」と言って学生さんも、みんな戦争に行きました。
「兵隊に行くと言うことは、死ぬことだ。」
とみんなかくごしていたそうです。そうすると、死ぬことをしょう知して、みんな、りっぱに出かけたと言うことですから、ここのところは、こわいと思います。
 また、そのように小さいときから訓練されたと言うのも、ひどいことだと思います。
 おじさんのように戦地に行って、生きて帰ってきた人は、本当に少ないのです。フィリピンから帰った人は、特に少ないそうです。
 ある人は、ジャングルの中で戦病死、またばくげきでひとかたまりに吹き飛んで、また船が沈んで海の底で、そして、飛行機といっしょにつっこんだりして、みんななくなりました。
「お国のため」とか「天皇へい下バンザイ」と言って死ぬ人もいましたが、ほとんどの人は「お母さん。」と言って死んでいったのです。ぼくはやっぱりもうだめかなと思っても、最後まで生命をそまつにしないで、れいせいに行動する人になりたいです。
 実際に戦地に行ってきたおじさんから聞いたこの戦争の話は、とつげきとか、鉄砲や飛行機で戦うような場面ではありませんでした。でも、じゅう分、戦争のこわさ、むなしさ、悲しさを伝えてくれました。ぼくは、戦争はひどいな、やってはいけないな、悲しいことだなあと、心の底から思います。
 なぜ戦争が起こるのか。どうして国と国が戦う所まで行ってしまうのか、今のぼくにはわかりません。
 ぼくは、これからいろいろ勉強して、何が正しいかを知ったり、日本の国の憲法なども、しっかり学んでいきたいと思います。平和の大事さ、ありがたさをわすれないようにしたいと思います。
 おじさんは、戦争体験を今までは、他の人に話したがらなかったそうです。でも、ぼくに、よくわかるように、正直に話してくださいました。生きるために、フィリピンの人の水牛をつかまえて、殺して食べたり、そのことでフィリピンの人々に、おじさんが捕虜になって、車で収容される時、
「カラパオ、パタイ(水牛を殺した)」
と言って、石を雨のように投げられたりしました。
 また、捕りょで作業の時、アメリカ軍のいもん袋から、お菓子をぬいて食べました。
「こんなことは、しちゃ行けないんだよ。本当はね。」
と言いながら話してくださいました。
(ずいぶん、苦労したんだなあ。)
とぼくは、つくづく思いました。
(でも、生きて帰ってきて、よかったね。おじさん。)
と何度も心の中で言いました。
一九八五年 三月作 85年版「日本児童生徒文詩集」(百合出版)所収
 なお、「原博おじさんの戦争体験」の全文は、「えのさんのつづり方日記」の「私の平和教育」その5参照。■最初のきっかけは、「ぼくの知り合いのおじさんは、戦争体験者です。」という一言が、別の題材で日記帳の最後に書かれていた。それがきっかけで、そのおじさんとのやりとりが、手紙やテープ起こしを入れながら始まった。帰国して母と対面するときは、何度読んでも胸に迫ってくるものがある。
 この作品が完成する前後の一九八五年二月に、国分さんは、息を引き取った。生きているときに、国分さんには、この作品をお目にかけたかった。

なくなって十年経って

 なくなった年から、教え子さんが中心となって、「こぶし忌」という研究会を国分さんのふるさと、山形県東根市で開いている。なくなって10年目に、日高六郎さんを記念講演にお呼びした。まだ、弟の国分正三郎さんがお元気で、フランスに住んでおられる日高さんに国際電話でお願いしたと聞いた。その話の中心は、「新しい綴方教室」〈新評論〉に出てくる「概念くだき」の発想のすばらしさを強調された。その折に、神戸の研究集会の記念講演の時のことに触れた。日高さんは話が終わって壇上からおりてこられた国分さんに向かって「国分さんさびしいね。退場する者が出てきて。」と声をかけた。すると、国分さんは、「私は、もっと沢山退場すると思っていた。」とさびしそうに話されたという。
「つづり方通信」35号2016年4月29日発行フォーラム21に連載中。

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