子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

6月26日(金) 国分一太郎さんの優しさ

6月26日(金) 国分一太郎さんの優しさ

 日本作文の会には、文章を書くのもうまいが、講演もうまかった人が何人かおられる。そのⅠ番は、国分さんであるが、次は遠藤豊吉さんだったと思う。日本作文の会を引っ張っていく人は、国分さんのあとは遠藤豊吉さんだと勝手に考えていた。年齢から言っても、田宮さんより5歳くらい上だった。その遠藤さんの名前を知るようになったのは、福島師範で同級生だった正木欣七(石田甚太郎)さんからだった。正木さんは、母と同じ浦和市立常盤小学校に勤めていたので、時々我が家に顔を出していた。その関係で、私が、初めて作文の会の全国大会に行くときに、『榎本さん、遠藤豊吉さんと同じ分科会で、世話人やっているから、そこに顔を出すといいよ。』と誘われた。そこの分科会に参加して、すっかり遠藤さんの話しぶりに魅了されてしまった。以来、遠藤さんの講演会は、なるべく聞きに行った。昔、『浦和の教育を語る会』が、浦和の高砂小学校の体育館で行われた。体育館いっぱいに人が参加していた。
 以来遠藤さんと顔見知りになり、母が浦和の公民館の副館長をしていたときに、『遠藤さんに、講演来てもらえないかな。』と頼まれて、手紙を出したら、わざわざ浦和の別所公民館まで来てくださった。当時、墨田区立小梅小学校に勤めていたので、担任していた子供たちの母親にも、『いい話が聞けるから、参加してほしい。』とお願いしたら、5~6人の親が、墨田から、浦和まで出かけてくれて、テープまでとってきてくれた 
 その遠藤さんが、日本作文の会を離れて、遠山啓さんの「ひとじゅく」の方へ行ってしまった。何かの関係で、国分さんとは、馬が合わなくなってしまったと、間接的には聞いた。その遠藤さんが、国分さんの最後の『国分一太郎文集10巻』が完成したときに、10巻目の本の宣伝用に書いた文章が、次の文章である。これほどまでに、国分さんを慕っていた文章は読んだことはない。2人の中がしっくりいかないと知った理論研究会のメンバーが、国分さんのうちで開いていた『理論研究会』に遠藤さんをお呼びして、2人の中を取り持とうとしたが、うまくいかなかった。
 

国分一太郎さんの優しさ  遠藤豐吉

 一九五三年の、あれは晩秋のころであったと思う。国分一太郎さんにはじめてお目にかかって、まだいくらもたっていないころのことだった。そのころ、わたしは福島県安達郡二本松町(現在は二本松市)の中学校で教員をやっていた。
 仙台であったか盛岡であったか、行く先はもう忘れたが、国分さんが東北のどこかへ講演に行かれるということがあった。そのことをなにかで知ったわたしは、国分さんにむ しょうに会いたくなり、ほとんど発作的に手紙を書いた。途中のどの駅でもいい、時間がどんなに短くてもいい、ぜ ひ会ってほしい、という、まことに一方的な、思い出すと、いまでも冷汗が出てくるような図々しい手紙であった。国分さんはすぐに返事をくださった。上野を夜たつ寝台列車に乗るので、福島県をとおるのは夜半すぎになる、という文面だった。
 調べてみると、その列車はわたしの住む二本松の駅には停車しないことになっていた。停まる駅は郡山と福島の二つで、郡山は午前一時半ごろ、福島は二時半ごろ、いずれも短い停車時間だった。それでもわたしは会いたかった。それで、また図々しくも一方的な手紙を書いた。郡山の駅のホームで待ちますので、三十秒でいいから会ってください、と。
 午前一時半といえば、ふつうなら人はだれしも眠りに入っている時刻である。国分さんはひとこともそんなことを言わなかったから、その胸中をうかがい知ることができなかったのであるが、ほんとうは、福島県をとおるのは夜半すぎになる、と書くことで、そんな時間に会いにくることはやめにしてほしい、という気持ちを伝えたかったのではないだろうか。だが、国分さんはわたしの非常識を拒まなかった。何号車に乗っているから、その車両が着くあたりで待っているように、という返事をくださったのだった。
 そのころのわたしは、教員としての仕事にゆきづまりを感じたとき、あるいは何人かの友人たちといっしょにつくっていた安達教科研の運動に困難をおぼえたとき、いつも国分さんを意識の心棒のところに引き寄せ、それをバネとして壁を破る方法を考えていたのであった。たぶんそのときも、わたしはなにかぶあつい壁にぶっかって、心がひどく落ちこんでおり、だから国分さんに無償に会いたかったのだろう。
 午前一時、わたしは、わたしの非常識を許してくださった国分さんのハガキをにぎりしめ、郡山駅のホームに立っていた。骨まで刺すような冷たい風が吹いていた。足もとから突きあげてくる寒気にあらがうように、わたしははげしい足踏みをくりかえし、そして列車を待った。
 闇のかなたから列車のあかりが見えたとき、わたしは寒さを忘れた。轟音とともに列車は入ってき、いくらかの時間、ブレーキのきしみをたてて、やがて停まった。デッキに国分さんの姿があった。上野をたってから郡山まで、おそらく一瞬も眠っていないのであろう。だが、国分さんの目は、いつもと少しも変わらずあたたかかった。
「元気か」
「はい」
「負けちゃいけない」
「はい」
 その程度の会話だった。しかし、わたしにとっては、それでじゅうぶんだった。
 発車まぎわ、国分さんの手から、さっと一冊の本が差し出された。
「これ、こんど出した本。きみあてに署名してある」
 その後も国分さんからはたくさんの署名本をいただいているのでとりまぎれてしまっているが、そのときいただい た本はたぶん『すこし昔のはなし』であったと思う。
 列車が去り、わたしはその一時間後にきた普通列車に乗って二本松へもどった。家に帰り着いたとき、時計は三時半をさしていた。夜明けにはまだ間があったが、わたしは一睡もせずそのまま朝を迎えた。わたしを眠らせなかった のは、おそらく体のしんににおいのようにのこる国分さんの優しさだったのだろう。
 その後二年ほどして、わたしは東京に住むことになり、国分さんにお目にかかる機会が多くなった。迷惑をかえりみず、月に二回は柏木にあるお宅にお邪魔していたと思う。 そのころ、わたしはおびただしい血を吐いた後遺症に悩み、ほとんど酒をのまなくなっていたが、静かに杯をかたむけながら語る国分さんの話を聞くのが好きで、よく一升びんをかかえていったものだった。夜半近くまでずるずるとすわりこむこともしばしばだった。そんなときは、庭に生えている野草、雑草を炊きこんだ国分さんお手製の雑炊をごちそうになった。あの雑炊をごちそうになった人は、わたし以外にもたくさんいるにちがいないが、あれは絶品だった。ゼニカネではとうてい買うことができぬあの雑炊にも国分さんの優しさがにおっていた。(教育評論家)

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