子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

6月3日(日」)もんぺの弟

6月3日(日」)もんぺの弟

 理論研究会の2次会で、田中さんが、高い車を購入したという話が出て、「それじゃあ、その車で山形まで行こう」となった。しかし、車で行って、「もんぺの弟」の菊池周介さんにインタビューをしようとなったのである。車で行くと、最低2泊はしないと厳しい。そこで、今回は、新幹線の2番目に早いので行くことになった。菊池周介さんのことを昔書いたことがある。それは、2016年10月に下のように書いている。

8月24日(木) 国分先生と涙の握手

 今年の夏は、私の仕事部屋の大掃除をしている。読まなくなった本などを、整理して、人にあげたり、廃棄処分などに費やしている。プリント類も、大変な量になってしまったので、これも必要のもの以外は、廃棄にしている。大変だけど、中味を確認しながら処分しているので、大変時間がかかる。懐かしいものは、どうしてもそこで読んだりしている。今回懐かしいプリントが、結構出てきた。この国分さんの最後の教え子さんの文章も、いつ読んでもジーンときてしまう。
 国分先生の最後の教え子さんは、文集「もんぺの弟」の子どもたちであった。この子どもたちを担任している途中に、治安維持法で逮捕されたのであった。その辺の事情を知らされないまま、別の担任に変えられた。やがて、国分さんが亡くなってから、何年か経ったときに、菊池周介さんに直接話をしていただき、胸をジーンとして聞いたものだった。

先生と涙の握手 もんぺの弟 菊池周介

 私は昭和17年の春から20年の春まで、東根駅の駅員として努めました。
 私の記憶も定かではありませんから、はっきり言えませんが、たぶん18年の夏の日だったと思います。
 駅ホーム待合室を清掃しておりますと、偶然にも国分先生とばったり会いました。
「あれ先生。国分先生でねえがず(ないですか)」
「んだんだ(そうです)、ちょっと家の方に来たもんだから、おまえ駅員になったのか、よがったな」
「それで先生、今どこさえんの(どこに居るの)」
「赤煉瓦で(刑務所)で囚人たちに勉強を教えている」
「先生ほだなざあ~あんまえべちゃな~(そんなことでどうする)」
「んだて(だって)今のところ、そうするしかないんだ」
「あだなどこさ(あんなところには)、ろぐな警官いないがら、さっさと帰ってきたらよがんベな~、困ったもんだ」」
「それによ先生、私達は毎日のように出征兵士の見送りだ。男の駅員も兵隊に取られ駅長も参っている」
「そうかそれは大変だ、おまえの話もわかるが頑張れや」
「んだて(だって)先生」
「わかった。わかった、こんなところでうろうろしてると、駅長に悪い、早く駅舎に行って仕事すろ」
「んだてすばらくぶりで(だって暫くぶりで)あったんだから」
「わかった、わかった」と言って肩を押されました。

 私はどうも腑に落ちませんでしたが、仕方がないので駅舎に戻りました。
そして20年8月15日世の中が一変し、先生も青天白日の身となりました。
その年の秋、もんぺの弟の集まりがありました。
もちろん国分先生もお見えになりました。
先生は1人1人の手を取り顔を見つめました。
あの優しい眼差しで私の番です。
私は手を出しません。
「どうした周介」「おれはいい」「何をごしゃいでいる(怒っている)」
「んだて(だって)駅で会ったとき、先生は俺を避けた」
「あ、あれか。んだて、俺の脇に1人いたろ、あの人は俺の附人で、俺がどこで誰とどんな話をしたか記録しているんだ、あれ以上おまえにしゃべらせたら、次の日駅長は警察に呼び出されていたはずだ」
と言ってにこっと笑われた。
あ、そうだったのか、そうだったのか。私は両手を出して先生の手を握った。温かかった。私の涙は口まで入っていた。

菊池周介さんは、5年ほど前までは、研究会に顔を出してくださっていたが、ここのところお会いできていない。お元気ならば、93歳になっているはずだ。

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