子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

6月4日(木)作品分析を学んで

6月4日(木)作品分析を学んで

「なにを、なぜ・はげましてやるか」(国分一太郎著『作文と教育』1965年連載)を理論研究会で読み合っている。その時に、次の作品が出て、国分さんは、次のようにていねいに分析している。
 わたしは、おねしょをしてしまいました。1年生になって、5日くらいたったよなかに、おしりの下に、手をやってみると、しきぶとんがよごれていました。
 わたしは、ねているおかあさんに、
「ふとんに、水こぼれて、しゃっこい」
と、うそをいいました。おかあさんは、
「ゆうと、なんだ、おめい、1ねんせいになって、こんなことして」
といって、さむいのに、パンツを、ぐいぐいひぬがせました。
 よほど前、秋田県大館市の1年生がこれを書いた。安保憲一氏の受け持ちの子どもだった。1年生になって、かなりときがたってから書いたのであろう。しかし、彼女のまだ発達していない意識では、そのかきはじめを、
 わたしはおねしょをしたことがあります(ました)。それは1年生になって、5日ぐらいたったばんのことでした。よなかに・・・・。
と書くことはできない。これはとてもむずかしいことだからだ。そしてこの文節は、そういう表現技術を、いまかいているときと、じっさいにあったときの関係とにひきくらべて、みがいていかせる指導のことについてかいているのではない。だから「わたしはおねしょをしてしまいました」がしてしまった直後みんな表現になっているとしても、今は、そのことにはふれない。

事物のとらえかたを学ぶ

 わたしたちは、いま、「おねしょしてしまった」と事実をとらえて、その事実あったということを「確認」している。この書き手の事物のとらえかた、表現そのものに目をつけているのである。いつのころのどんなときに、そのことがあったかを、再確認しようとしていることを、よしとしようとするのだ。1年生のはじめごろは、こういうこともあったのだったと、今はそのようなことをしなくなった『高い立場』から、ふり返っている事実に、意味を見いだすのだ。そのことを、あのときはこうで、それに気づいて、こうして、こうウソをいって、そのことで、母親からこういわれて、こうされたのだったと、その「事実」をしっかりとらえ直していることに、よく「これをやった」とはげましを送りたいところなのだ。

どこをほめるか

 その事実を、「おねしょしてしまいました」「1ねんせいになって5日くらいだった」「夜なかに、おしりの下に、手をやってみると、しきぶとんがよごれていました」と、こまかくとらえ直しているところを、ほめてやりたいのだ。そのとき母に言ったウソが、「ふとんに水がこぼれて、しゃこい」だったということ、それに対する母のこたえが「ゆうこ、なんだおめえ、1ねんせいに(「も」の気持がはいっている!)なって、こんなことして」だったということを、もう一度正確に思いだし、とらえ直していることに、生活綴り方をかくことの意味を、おもくみたいと考えているのだ。そのときの母の動作が「さむいのに、パンッをぐいぐいぬがせました」だったことを再確認していることにも同じ思いをはせるのだ。

押しつけ的には教えない

 このようなことをすると、このようなことをさせること。そこにどんな意味があるのか。一般に、子どものちいさいころは、おねしょをして「しまいました」というようなことがよくあること。そんな時一般に、叱られることを恐れる小さい子どもは、ウソをいってのけるものだということ。そのようなことがあり、そのような子どものウソに接したとき、一般に母というものは、「なんだ、おめえ・・・」というような荒いことばを使い、「1年生にもなって」などというものだということ。そして「さむいのに、ぐいぐいパンツを」ぬがせたりするものだということ。このような一般的な認識、一般的な表象へといたらせるための下づみのしごとをしたいと思うからなのだ。はじめから「子どものちいさいころは」とか、「母親というものは・・・」とかと、一般的な形で、おしつけ的に教えていきたくはない。1度か2度か3度か、何度かは具体的に経験したことで、子どもたちに何かを考えていく。そしてなんらかの表象なり観念なりを、ゆがんだ形、部分的な形ではあるにしても、つくりあげていく。それらを土台として、生活綴り方では、それをひとまとまりの具体的にかいた文章にさせることによって、それらの事実を再確認させつつ、ややととのったものに概括させつつ、ややととのったものに概括させつつ、さっきいったような一般的なとらえ方へ発展させていくための新しい土台とする。これをねがっているからなのだ。
 さらに、これを学級集団の中に投入して、これと似たこと、これから思いだすことなどを、めいめいに話させてみるとしたら、どういうことになるか。さきにいった一般化へとむかって進んでいくための資料、材料、媒介項となるものは、どんどん出てくるのである。「ぼくも」「わたしも」「ぼくの時は」「わたしの時は」と、普遍化も、豊富化も、特殊化も、つぎつぎになされていくのである。 「作文と教育」1965年1月

早川さんも同じ作品を覚えていた

 この文を読み合っているときに、「おねしょ」の文章は、けっこうたくさん年刊文詩集に載っていたことを思いだした。1970年頃の年刊文詩集に載っていた1年生の「いざわさとる」君の文は、忘れない楽しい文章と言いかけた。すると、早川さんもその文のことをきちんと覚えていて、3度もおねしょをして、次々に移動したことを覚えていた。「ぼくは、ちんちんにかんしゃしています。」という結びの言い回しまで言ったので、感心して聞いていた。私も、この楽しい文章は、いつも他のクラスや学年に出かけたときに読んで聞かせた。作文て楽しいものだと、子どもたちにわからせるには、本当に良い作品だった。この作品については、次に載せることにする。なお、小見出しは、榎本がつけた。

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