子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

6月4日(木)45年前の作品

6月4日(木)45年前の作品

おねしょ 北海道釧路市立光陽小学校 1年 I S 
 ぼくは、ちいさいとき、まい日おねしょをしました。でも、いまは、ぜんぜんしません。どうしてしなくなったのか、じぶんでもわかりません。ママは、
「きっとさとるちゃんのしんけいが、おとなになったから、もうだいじょうぶ。」
といいます。
 ようちえんのころは、よくたれました。どうしてかというと、ねるまえにみずをのむからです。ゆうがたになって水をのむと、よくパパに
「またおんしょのげんりょうのんでるな。」
といわれました。1ばん多いときには、ひとばんに3かいもたれたことがあります。
 1かいめにじぶんのふとんにして目がさめました。はじめは、なまぬるいからあたたかくていいけど、だんだんつめたくなるので、おねえちゃんのふとんにいきました。また目がさめて、なんだかふとんがびしょびしょなので、パンツをさわってみたら、やっぱりびしょびしょでした。ぼくは、おねえちゃんにおこられたらたいへんだとおもって、あわててママのふとんに、ひっこししようとおもいました。ぱんつをぬいでなげたら、おねえちゃんのかおにおちました。ぼくは、つめたくてめがさめたらたいへんだとおもったけど、そんなひまはないから、そのまま、すたこらさっさと、パパとママがねているへやににげました。ストーブのあるへやは、さむくてくらいでした。さっと、とをあけて、ママのふとんにはいりました。ぼくは、あんしんで、またねむりました。
 また目をさましたら、またしめっているので、こんどは、パパのふとんにうつりました。そうしたら、おねえちゃんが、ここのへやにきました。ぼくは、こわくてふとんの中に、もぐりました。おねえちゃんは、ママのふとんにはいりました。そして「つめたい」といって、ふとんからでました。ぼくは、おかしくて、わらいそうになりました。でもこえでわかったらこまるから、口をおさえていました。おきてから、
「さとるのおねしょで、せかいちず3つもできた。」
とからかわれました。だけどぼくがたれようとしてたれたのではないからへいき、しらんぷりしていました。ぼくは、ようちえんのとき、けんかはにがてでしたが、おねしょだけはたっしゃでした。
 1ねんせいになってから、1がっきは、ふしぎにあまりしませんでした。2がっきになったら、またときどきたれました。
「せっかくなおったのに、またちんちんこしょうしたな。」
といわれたので。ぼくは、がっかりでした。
 でも、ふゆやすみのころから、まただんだんしなくなりました。そして、せつぶんに、ぼくが
「おねしょのおに、でていけ。」
といって、まめをまいたので、わるいおねしょのおにがみんなでていって、いまでは、ぜんぜんたれません。ねるまえにお水をいくらのんでも、ぜったいたれません。だから、ぼくは、あんしんして、ねることができます。ぼくはちんちんにかんしゃしています。
「作文と教育」70年版日本児童文詩集・7月臨時号(百合出版)

今、こんな作品が出てくるだろうか

 プライバシーがやかましく言われてきている今、こんな作品を教室の中で読み合ったら、子どもたちは大いに笑うだろうが、親たちはどのような反応するのか、一抹の心配がよぎる。ぼくは、この作品を低学年の担任すると、必ず読み聞かせをしていた。理論研究会の早川さんも、同じことを、北海道でやっていたと言うことを聞いて、うれしくなった。

豊島作文の会の例会便りで

「なにを、なぜ・はげましてやるか」国分一太郎著について。 この著作は、『新しい綴り方教室』の後に、『作文と教育』に1年間連載されたものである。1965年頃の作であるが、今読んでも新鮮である。やがて、この連載は、その後の国分の他の論文と一緒に『実践生活綴方ノートⅠ』として、新評論から出版された。私は、その本を、20代の頃に読み、作文教育の道を確かなものにしてくれた。今の若い教師が、このような著作に向き合えば、自然と子どもの見方が深まって行くこと間違いないだろう。しかし、今の教育現場は、忙しさに明け暮れて、子ども以上に『活字離れ』になり、ゆっくり向き合うことも出来ないくらい忙しい。日色さんが、その部分を1冊にまとめて、冊子にしてくれた。事前に渡された方は、目を通して参加すると、さらに有意義になるだろう。

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