子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

7月1日(土)母の3回忌の日に

7月1日(土)母の3回忌の日に

母が去って、3年目の月日が経ち

 早いもので、母が亡くなってあら、3年も過ぎてしまった。私にとっては、いつも忙しく働く母の姿があった。女手一つで、私達2人の兄弟を育てること自体、、大変なことであったと、今になって、つくづく思う。特に、戦争に負けて、人々は必死に生きていた時代である。戦後、数年たち、再び教師の道に復帰したのだが、その当時の教師の給料は、薄給で1ヶ月は持たなかったらしい。教師に限らず、働く労働者は、みんな貧しかった。まだ、教師がアルバイトをしてよかった時代である。2件くらい、家庭教師を掛け持ちして、我々家族の生活を何とか、維持するために働いていた。我々2人の兄弟、は、母の母、つまり祖母がめんどうを見て育ててくれた。祖母も、まだ若く、母が離婚して戻ってきた頃は、40代の後半であった。また、母の兄弟である哲一郎叔父、政子叔母、せつ叔母が一緒に暮らしていた。狭いながらも、楽しい我が家であった。やがて、2人の叔母も結婚して、我が家を去って行った。しかし、この与野の家での暮らしが、 私にとっては、中学1年まで過ごした、思い出多い少年時代になる。父親はいなかったが、その寂しさを感じるようなことは、一度もなかった。2才ちがいの弟宏と、近所の遊び仲間といつも集団で遊んでいた。

与野でのくらし

 だから、母がいつも遅く帰ってきても、そのまま祖母や叔母達と一緒に寝てしまったのである。時々、母が早く帰ってくると、私達のめんどうを見る暇もなく、テストの〇付けや、ガリ版に向かって教材を作っていたりした。私と、同学年の子どもを担任していたときに、どんなテスト問題なのかを見せてもらった記憶がある。そばで、〇付けを見ていると、みんな大変できるので、成績のよい子が多いクラスなんだなあと子供心に感じた。それが、本日来ていただいた、石田さん、大場さん、三浦さんのクラスであった。だから、母は、常に自分のクラスの子どもたちと比較して、「何で、こんな問題ができないの?」と、叱られた記憶がある。事実、ずいぶん経ってから、「北浦和小学校時代の、豊と同じ年の子どもたちが、最も優秀な子が多かった。」と、話してくれたことがある。そんな、優秀な子どもたちと、比べられたので、私もたまったものではなかった。

母の教え子さんとの思い出

 また、この時までは、よく教え子さんが、遊びに来てくれた。私は、その子どもたちと一緒に、近くの池〈ふくはら〉やまだ田んぼがたくさん残っていた頃なので、田んぼの中に巣を作っているアメリカザリガニなどを、穴に手を突っ込んで取るのを見せた記憶がある。夜になると、蛍が、時々でたりして、蛍狩りを楽しんだ記憶もある。

母とお風呂屋へ

 また、今でも時々思い出すのは、おふろが家になかったので、近くの風呂屋に出かけた。大人15円、子ども8円だった記憶がある。母の仕事が、少し早く終わったときには、兄弟2人と母の3人で風呂屋に出かけた。小学校高学年まで、男風呂でなく、女風呂に入っていた。何しろ、男風呂は、時々浪花節などのうなり声が聞こえたりして、ちょっとこわかったのである。風呂から出ると、母は、いつも空を指さして、「あの白く帯のように見えるのが、天の川だよ。」と教えてくれたりした。冬の空は、なおさら星がいっぱい見えた。「あのひしゃくの形が、北斗七星で、ダブリュウがカシオペアで、あの北の空に光っているのが、北極星だよ。」と、楽しく語り合いながら、家に帰ってきたことを、なぜか鮮明に覚えている。あの頃の空は、よく星が見えたのである。

引っ越しの決意

 哲一郎叔父も結婚して、その家で一緒に暮らすことになった。今のような、2世帯住宅でもなかったので、色々ぎくしゃくすることが何度かあった。祐子ちゃんという子どももでき、赤ちゃんのいる生活も新鮮であった。2人目の子どもができ、そこで一緒に暮らすことは、お互いに大変だと母は、感じたのであろう。思い切り、そこの家を出ることを決意した。

浦和に引っ越す

 与野から、浦和の別所沼地区の常盤町に引っ越した。その頃から、住宅ブームが始まった頃で、住宅金融公庫に金を借りて、新築の家を建てた。母の給料から考えたら、大変な借金だったが、25年ローンの1件屋に住むことになった。母にとっては、大変だったけど、一番充実していたに違いない。浦和の駅からは、歩いて20分くらいのところであった。そこで、中学、高校、大学と通い、結婚するまで、そこで暮らすことになった。弟宏の方が先に結婚して、私と母の2人暮らしが何年か続いた。

最後にそむく

 私も、結婚したい人がいたのだが、同居することを母は望んだ。そのため、知り合ってから、5年も結婚できずにいた。しかし、このままでは、いつになっても、解決できないと考えて、その家を出て、川口に安いマンションを購入して、そこに住むことにした。「豊さんは、私の言ううことをいつも聞き入れてくれたけど、最後に言うことを聞いてくれなかったね。」と恨み節を聞くことになった。母は、家庭科教育などを教育実践の柱にしていたが、この肝腎な自分の家庭のことになると、民主的でなかった。

最後は一人住まい

 その後は、宏夫婦が、子どもができたので、一緒に住んだのだが、なかなかスムーズには行かず、途中から、また母1人の生活がはじまった。その間、母の所には、時々顔を出したりしていた。
 この頃、石田さん達が、暮れになると、母の所に大掃除に来てくれたりしていた。そのことが、新聞の記事になり、「子どもはいらない。」などと書かれて、ビックリした。

老人ホームへの決意

 あるとき、86才頃、階段でめまいを起こし、2,3段の所から落ちて、肋骨を何本かひびが入ってしまった。これ以上一人住まいは、無理と考えて、「まどか中浦和」の有料老人ホームでお世話になることになった。
 今から考えると、最初母は、老人ホームに入ることに反対したが、結果的には、最後はそこで過ごせて、私達夫婦にとっても、気が楽であった。そのかわり、週に、1,2度は必ず母の所に会いに行くようにした。母は、果物が大好きで、季節のものを持っていくと大変喜んで食べてくれた。1週間に1、2度だが、母の所に行くと満面笑顔で迎えてくれた。行けば、1時間以上いるようにして、色々な話をした。そろそろ帰る時間になると、「もう帰っちゃうの。」とさびしい顔をした。この時が、母と一番向き合って話をした。そこで、パソコンゲームを教えたりした。一時は、大部こって、就寝時間を超えて、12時頃までやっていて、老人ホームの人に注意されたりしていた。老人ホームに入った頃は、まだまだ元気で、浦和の駅まで歩いて買い物などにも一人で出かけたりしていた。しかし、ベットから落ちて、大腿部を骨折してからは、体も大部弱ってしまった。

歩けなくなって

 車椅子の生活になってしまった。その頃から、軽い認知症がはじまっていた。母が、90歳の時に、最初の教え子が80才になったので、最後のクラス会をしたいと連絡が入った。無理だろうと考えていたのだが、どうしても出たいというので、一緒に車に乗せて出かけた。会場に着くなり、「〇〇ちゃん」と何人かの人の名前を呼ぶ姿を見て、驚いてみていた。認知症などわからないくらいに、元気に交流していた。本日参加して下さっている石田さんのクラスも、90才過ぎてまで招待して下さり、母にとっては、いい思い出をたくさん作ったに違いない。

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