子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

7月7日(木)もうじき母の1周忌

7月7日(木)もうじき母の1周忌

 早いもので、7月21日で、母の1周忌がやってくる。年のせいで、月日の経つのが、大変早い感じがする。この間、母のすぐ下の3才下の妹のとく子叔母さんも、後を追うように逝ってしまった。その亡くなり方も、今考えると、あまりにも偶然が重なっている。つまり、母の5人兄妹の下から、2番目の政子叔母と、陶板浴に出かけた帰りに、たまには川越の叔母さんの所に顔を出そうかと提案し、そのまま叔母さんに会いに行った。半年くらい会っていなかったので、叔母さんは大喜びで迎えてくれた。足が痛いので、なかなか外に出かけなくなったと聞いていた。子どもである滋ちゃんに、その日も「出かけないのであれば、もう知らないよ。」おどかされていた。天気も良かったので、中院のしだれ桜がきれいだから見に行こうと誘い。やっと腰を上げた。中院には、おじさんのお墓もあり、ついでに墓参りも兼ねてお墓に案内してもらった。叔母さんは、杖をついでいたが、元気であった。帰りは、近くのファミリーレストランによって、おいしく食事をした。叔母さんは、こちらが心配するくらいに、すごい食欲で頼んだものはすべておいしそうに食べていた。帰りは、家まで送り、「また来るね。」と言って別れた。つぎの日の朝、政子叔母さんから「川越の叔母さんが、亡くなったよ。」と言う訃報の知らせであった。
 この叔母さんには、母と3才違いと言うことで、一番母のことを気にかけてくれた人だった。今から考えれば、3才と1才にならない我々兄弟のことを、何かと気にかけてくれた叔母さんであった。つまり、離婚をして、これからどう生きていくかと言うことを、母の身になって考えてくれたのであった。叔母さんの家も、おじさんが小学校の教師で、1馬力であった。だから、やはり、経済的には、大変だったはずである。ミシンが得意な叔母さんで、何でも縫って作ってしまう人であった。3人の子どもの中で、1番下が、女の子であったので、何でも起用に作っていた。
 叔母さんの1周忌には、おじさんの兄弟の子どもたちも何人か見えていた。滋ちゃんの喪主のあいさつもあったが、猛ちゃんのその後のあいさつが印象に残っている。経済的に大変であった、私たち兄弟3人を、育ててくれたことに、感謝の気持ちを述べていた。何かジーンとするあいさつだった。
 叔母さん、お母さんと仲良く語り合ってください。二人とも、90才を超して、よく長生きしました。長いこと、我々家族のことまで、いつも心配してくれたことを感謝してます。この愛情はいつまでも忘れずに、私たち兄弟にも注いでくれたことを心より感謝します。

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