子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

8月15日(火)  敗戦記念日の日に

8月15日(火)  敗戦記念日の日に

 今日は、72年目の敗戦記念日。誕生日が来たら、72才になる、私の年と同じ。新聞の1面を見ても、大きな見出しでなく、片隅に小さく扱われている。それだけ、戦後は、遠くになってしまったのであろうか。この日は、韓国などは、戦争から解放された日、日本の侵略戦争から解放された日と言うことで、大変大事な日になっている。沖縄などは、6月23日は、「慰霊の日」として、祝日にしている。本日の新聞の投書欄などを読むと、8月15日が何の日なのかわからなくなってきている人が多くなった。だから、この日を祝日にして、戦争で亡くなった人々のことを偲びながら、「2度と戦争はしてはならない」と考えさせたいと、書いていた人がいた。ちょうど、旧盆の最後の日でもある。お墓参りもする人もいるだろう。

久しぶりの日に

 私は、日頃なかなか会えない母の妹の政子叔母の所に連絡を取った。80歳の時に車の運転をやめたので、87才になるこの頃は、なかなか墓参りも行けなくなったという電話だった。そこで、昨年亡くなった母のすぐ下の妹の所の川越まで連れて行き、お線香を上げに行った。政子叔母は、2人の娘と息子をガンで亡くしていまい、今は一人北浦和で暮らしている。
 その叔母が、今年の母の3回忌の時に私が書いた文章のことで、「少し話したいことがあるからいつでも話しに来て。」と言われていた。ちょうど良かったので、昨日その話を聞きに行った。それは、私が、3才にも満たないときの思い出のことであった。
 その時の文章は、こう書いた。
 *父親の思い出が1つだけ鮮明に覚えていることがある。それは、小さい頃は、「お父ちゃんは、なくなった。」と、志満おばあちゃんから何度も言われていた。ところが、私の目の前に、現れたのであった。「ごめんください。」と言う声で、よちよち歩きの私が、玄関に歩いていくと、懐かしい父が立っていたのである。私は、うれしくて、「お父ちゃんだ。」と言って飛び跳ねた。こたつのあった部屋に戻り、母に伝えに行った。母が私をだっこして、父にだっこさせたのを覚えている。そのことを、家にいなかった志満おばあちゃんに話すと、「それは幽霊だよ。」と言って、相手にしてくれなかった。ずいぶん経った頃に、このときの話をすると、父は、離婚が決まってしまったので、最後の別れに私の顔を見に来たのだということを、教えてもらった。なお、父親は、私が、高校3年の頃、なくなった言うことを、父の兄の子どもの輝彦さんが、夜、伝えに来たのを覚えている。生きているときに、1度会ってみたかった気もする。

この時の話は、事実だ 

 ここの部分についてだった。当時、こたつに一緒にいたのは、政子叔母もそこにいた。だから、その時のことを、もう少し詳しく話してあげると言うことだった。「たしかに豊が書いたように、このことは全く事実の通り。あの時の豊の喜び方は、本当に嬉しそうにして体中で、その喜びを表していた。」とのことであった。また、結婚して、豊が生まれたときは、お父さんは大喜びだったんだという話も聞いた。また、宏が生まれたあと、別れることが決まりかけたときに、私の母は、もう少し話し合いたいと考えていたようだ。しかし、祖母が許さず、家財道具をどんどん持ってきてしまったという話だ。宏君が生まれたばかりだったので、たらいが大切な道具だったのだが、それも祖母は持ってきてしまったと言うことだった。政子叔母は、あとで、祖母に黙って、またそのたらいをリヤカーに載せて持っていった話などをしてくれた。あとから、私の母にたいそう感謝されたと話してくれた。しかし、結局離婚することにきまり、母は、渋々与野の家に帰ってきたと言うことだ。しばらくは、2階に閉じこもって、泣いていることが多かったという話を、初めて聞いた。母にとっては、辛い毎日だったんだろう。

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