子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

9月8日(金)  山形の研究会のまとめ

 毎回、このまとめは、田中定幸さんが担当していたが、今回は、草木勝弘さん(元日本作文の会常任委員)に大会ルポも含めて、お願いした。今回のまとめを改めて読みながら、すばらしいまとめが出来上がったなあと感激している。田中さんと2人で、相談して、お願いすることに決めた。草木さんご苦労様。

北に向かいし枝なりき

9月8日(金)  山形の研究会のまとめ

第13回国分一太郎「教育」と「文学」研究会報告
□没後32年、第13回国分一太郎「教育」と「文学」研究会は、国分一太郎こぶしの会・長瀞小学校想画を語る会の共催のもと、東根市・東根市教育委員会・東根市芸術文化協会・東根市音楽連盟・東根文学会・長瀞地区区長協議会・長瀞郷土史研究会・山形新聞・山形放放送などの後援いただき、今年も国分一太郎が1930年に教師生活を歩み始めた地元で、7月15日、16日に開催しました。
たくさんの方々のご支援と参加者によって充実した会となりました。心より御礼申し上げます。
日程 2017年7月15日(土)~7月16日(日)
《第一日目》7月15日 午後1時30分~4時
さくらんぼタントクルセンター
・主催者あいさつ
田中 定幸(国分一太郎「教育」と「文学」研究会会長)
小野 正敬(長瀞小学校想画を語る会会長)
・来賓のご挨拶(敬称略)
元木 正史
(東根市教育委員会教育長)
結城 五郎
(長瀞地区区長協議会長代理)
・お祝いのメッセージ 
秋葉 征士
(東根市議会議長)
「長瀞小学校の想画と綴方でたどる 昭和の記憶」
□国分一太郎の詩による歌唱 (出演者全て敬称略)
 独唱
 斉藤 文四郎(東根市音楽連盟)   
「こぶし花」「かやしょい」「日暮れの酒買い」
独唱
渡邉 ゆき子
(東根市音楽連盟)「君ひとの子の師であれば」
三重唱
高橋佐知子・佐藤 由枝・渡邉ゆき子
「春が来る」
「雨のえんそく」
二重唱
斉藤文四郎
渡邉ゆき子「最上川」
ピアノ伴奏
遠藤 円(東根市音楽連盟)
□詩文の朗読 
朗読
羽柴 麻美
□長瀞小学校の想画と綴方の鑑賞
ビデオ作成
長瀞小学校想画を語る会
ビデオ上映
「想画」(浅野目憲一氏作成)
「長瀞の想画」(北村山視聴覚教育センター制作)
墓参    17:00~17:30  
交流会   18:30~21:00  青松館 
 

《第二日目》7月16日 午前9時~午後3時

分科会と記念講演 さくらんぼタントクルセンター
◆分科会
報告① 9:00~10:30  

「日本児童詩のはじまり」を今に生かす

~「国分一太郎・東京学芸大学特別講義「生活綴方と昭和国語教育史」より~
田中 定幸(国分一太郎「教育」と「文学」研究会)

報告② 10:40~12:10   

生活綴方運動の一つの里程標

~『綴方教室』(豊田正子)の<読み手>がたちまち書き手>となることから~
添田 直人(東京葛飾区・豊田正子を愛す会)
~昼食・休憩~
◆記念講演 13:00~14:30

長瀞小学校の「想画」と「綴方」-佐藤文利と国分一太郎を辿りながら-

鈴木 実 (山形童話の会)
◆全体会 14時45分~15時    
□分科会報告  共同研究者より
□感想発表   参加者より
□終わりの言葉 国分 真一(会員)
〈挨拶〉

画文集『昭和の原風景』にご支援を 

田中 定幸(国分一太郎「教育」と「文学」研究会会長)
こんにちは。
国分一太郎「教育」と「文学」研究会の田中です。今年も、東根市教育委員会をはじ多くの会のご後援、またたくさんの方のご支援をいただいて、国分一太郎生誕の地で、本研究会が開けることを、心より御礼申し上げます。
 本来ならば、私より先に、「国分一太郎・こぶしの会」の大江権八会長がご挨拶をされるのですが、ご病気のために出席できないということで、大変さびしく感じております。また、長年、長瀞小学校の「想画」を折にふれて紹介してくださっている寒河江文雄さん、また国分一太郎収蔵室で、国分先生の文集や文献の整理をしてくださっている、山田亨二郎さんのお姿が見えないのも残念に思います。
 けれども、そうした方々の、思いをうけとめて、実りのある研究会にみなさんとともにしなければいけないとその責任を感じております。
 ご承知の通り、国分一太郎が亡くなられたのが、1985(昭和60)年2月12日。亡くなられた後は、「こぶし忌」と言う形で、国分一太郎をしのび、さらに、国分一太郎「教育」と「文学」研究会として、地元・「国分一太郎・こぶしの会」のみなさんと、力を合せて、業績を顕彰し、考えをさらに発展させるために会を重ねてまいりました。
 こぶし忌が18回、あいだに国分一太郎資料展示室オープンの会、そして、13回目、32年の歴史をふんでおります。
そうしたなかで、国分一太郎先生が長瀞小学校に赴任して実践した「綴方教育、児童詩の教育」とともに、佐藤文利先生らと共に実践した「想画」教育を「世界記憶遺産」にしようという運動がもりあがってきました。
 そして、今回、長瀞小学校想画を語る会・こぶしの会の方々が中心になって画文集『昭和の原風景』の出版を企画して、現在進行中です。
 このことについては、のちほど語る会会長の小野正敬さんのご挨拶やこぶしの会事務局の村田さんからのくわしい経過報告などがあると思いますので、私はくわしくふれませんが、是非、みなさんも画文集『昭和の原風景』発刊に、ご支援をいただけますよう、ここでお願いをさせていただきます。
 そういうこともあって、今回研究会は、画文集刊行と合わせて、研究会のコンセプト・柱を「昭和の時代」初期、に設定いました。
 昭和の初期の時代に、長瀞小の子どもたちは、自分たちのくらしを絵や文で表現していました。くらし・生活を描いた生活画、当時はそれを「想画」と読んでいました。
その「想画教育」と、北原白秋によってみいだされたという「児童自由詩」をさらに北方の地で発展させ、生活と結びついたところでの「生活詩」を書いておりました。また全国的には鈴木三重吉の『赤い鳥』読まれ、その中から豊田正子の作品が有名になり『綴方教室』が発行されて話題になりました。
こうしたわたしたちの「原風景」ともいえますが、昭和初期の時代と表現が、明日の研究会でも話題となります。
お手元の資料にもありますように「山形童話の会」の鈴木実さんが記念講演として、佐藤文利と国分一太郎を巡りながら≪長瀞小学校の「想画」と「綴方」≫について講演をしていただきます。
そして、現在は駿台予備校講師、そして、法律事務所に勤務されている「豊田正子を愛する会」の添田直人さんの、豊田正子の視点から生活綴方運動について語っていただきます。
私も、国分一太郎が長瀞で実践したことを語っている学芸大学の講義録の一部「日本の児童詩のはじまり」について紹介させていただきます。
 どうぞ、二日間、興味のあるところにご参加いただいて、昭和の歴史をふりかえり、今のくらしにつなげていただければ幸いです。
また、墓参、交流会もふくめてもなさんの、つながりの「和」が広がることを念じております。どうぞ、よろしくお願いいたします。

〈分科会報告〉
 お二人の共同研究者に「分科会報告」という形で原稿をおねがいしました。
報告①

「『日本児童詩のはじまり』を今に生かす」

田中定幸(国分一太郎「教育」と「文学」研究会)
共同研究者 安部貴洋(山形県立米沢栄養大学)
 本報告「『日本児童詩のはじまり』を今に生かす」は、その題名どおり、国分一太郎の講義「日本の児童詩教育のはじまり」の報告と、国分一太郎の講義、さらには国分一太郎の遺産をどのように受け継いでいくのか、その点を模索している点において非常に重要な報告であったように思います。
「日本の児童詩教育のはじまり」は1984年に東京学芸大学で行った講義の録音を田中先生が聞き取り活字として起こしたものです。まず、この点に深く感謝したいと思います。また講義の内容に関して言えば、これまでの国分一太郎研究に新しい視点をもたらすのではないかと考えています。まず、この講義のなかで国分は、鈴木三重吉(1882-1936)による『赤い鳥』創刊(1918年)を日本における児童詩教育の始まりと位置づけ、『赤い鳥』児童詩教育を批判的に継承する形で、生活詩、生活行動詩が出てきたことを論じています。そして、この流れの中に国分は自らの児童詩教育の実践を位置づけ、自らの実践を紹介しています。これが講義の概要です。この講義の内容はこれまでの国分一太郎研究に新しい視点をもたらすのではないかと思っています。この時期、特に1935年以降の国分一太郎を語るさい、1932年の教労事件との関係で捉える解釈が一般的であるように思えます。もちろん、家族や子どもを大切にした国分一太郎において、この視点はこの時期の国分一太郎を語る上ではすずことはできません。ただ、その一方でこの時期の国分の理論的展開が語られる必要があるように思えます。(この点、田中先生も批判されていました。) 北方性教育運動に関わるなかで国分一太郎の理論はダイナミックに展開しているように思えます。例えば、国分の考える「北方」は、中央と地方といったその当時の地方を捉える枠組みを大きく超えているように思えます。北方性教育運動における国分の理論的展開を考えるうえで国分の講義は重要な示唆を与えるものと思います。
さらに、この報告は国分一太郎の講義を今に生かすとはどのようなことなのかを、具体的に私たちに示してくれます。この点に関しては私が改めて説明する必要はないかと思います。ただ、私も含めてですが、これから国分一太郎を「知らない」世代が多数を占めるようになります。そのときのために国分一太郎をどのように伝えるのか、本研究会の重要な課題かと思います。この点においても、本報告は重要な報告であると思われます。ただ、残念ながら分科会では、時間不足のためにこの点が十分に説明されることなく終わってしまいました。別の機会、あるいは紀要等でのさらなる報告を期待したいと思います。
報告②

「新しい綴方教室」の誕生にかかわって

豊田正子の「綴方教室」と「新しい綴方教室」
添田直人さんの報告から受け止めたこと
共同研究者 今井 成司  
(元日本作文の会・常任委員)
 国分一太郎は1951年「新しい綴方教室」を出版した。なぜ「新しい綴方教室」という題名だったのか。なぜこれを書いたのか。添田さんは、これを一つの問題提起にして、豊田正子の「綴方教室」とのかかわりを報告した。
 綴り方は、単なる作品・表現にとどまらないで、読み手に感動を与え、そしてその読み手がまた書き手になっていく、という過程で広がっていく(今でいうネットワーク)。それは地域にもまた影響を与えていく。赤い鳥に掲載された「うさぎ」という豊田正子の作品は、おばさんの話をそのまま書いたために「名誉棄損」として当事者から抗議された。それは、弱い立場にあった正子の父親のブリキの仕事にまで、影響を与えてしまった。
これは生活つづり方でも同じだ。山田とき先生の「退職騒動」に当たっての地域の人々の運動も同じ流れの中にある。この山田ときさんが解職ではなく、転勤になったわけを添田さんは、権力側が、村の人たちの「一揆」を恐れたからではないか、という見方を示した。一方は非難され、一方は住民から慕われる。ここにも大木顕一郎の綴り方指導と山田ときさんの生活綴り方の指導との違いがわかる。
 そして、添田さんは、「自転車」という豊田の作品の指導記録の中に、教師・大木の姿勢を見ている。「自転車」という作品は、正子の父親が仕事に行くのに使う大事な自転車が盗まれてしまった話だ。これは、正子一家の、仕事・生活に大きな打撃を与えた。自転車が盗まれたために、ブリキ職人の父親は朝早く遠くの仕事場まで歩かなくてはならなくなった。帰りが、遅くなり深夜になることもある。
 この作品を読んで、大木は「その後は綴り方の指導はしなかった」と「指導の記録」で書いている。この時の大木は「自分は高みにいて貧困には近づかなかった。知識人の立場にとどまっていた」のではないか、と添田さんはとらえる。
しかし、多くの読み手、(この場合知識人たち)は、豊田正子の作品を「生活つづり方の運動」と結び付けて読んでいる。戦後は生活綴り方の広がりと相まって、そういうとらえ方が根強かったのではないか。
 しかし、国分さんは、戦後の、このような風潮について違和感を持っていたのではないか。その例として、日本共産党文化部時代のエピソードを取り上げる。西沢隆二(ぬやまひろし)が、豊田正子及び鈴木三重吉を「生活つづり方」として高く評価し、「鈴木三重吉まつり」を提起したとき、国分さんは「それはちがうんです」と口走ったくだり(『ヨウシュヤマゴボウ』)にその心情が書かれている。その時の思いは次のように書かれている。
「1930年代から『赤い鳥』をのりこえたところで、生活つづり方の運動をやり、一人の豊田正子でないものを育てようとした。何百人かの青年教師たちが治安維持法違反にひっぱられているではないか。今、それらの幾人かは入党しているかもしれない」。それなのに、どうして豊田正子、三重吉なのか。
「豊田正子と生活綴り方はちがう」。「新しい綴方教室」を書かねばならないという思いがこういうところから生まれたのではないか。はっきりと、今「生活綴方」を打ち出す必要がある。「新しい」ということの意味がこの言葉にあるのではないか。
そして国分さんは「綴方教室」を一つの里程として「新しい綴方教室」書いたのではないか。
 メモをもとに、添田さんの話をまとめてみましたが、聞き違いや思い込みがあるかと思います。あくまで私の理解したものということで、受け止めていただきたいと思います。話を聞いて感じたのは、国分さんは、このようなあいまいさのままにはしておけない、という思いで「新しい綴方教室」を世に出したのではないかということです。
 添田さんの話は、謎を解く過程が面白く、論理的でした。
もう一つ、添田さんの話の底流にあったのは、インテリといわゆる庶民の関係・問題です。豊田正子もこの意識から逃れられなかったエピソードも語られました。そして、もう一つは「書く」ー「読む」という過程を通して、人々のネットワークができていくということです。生活記録運動や労働者の文学、詩を書く運動などにかかわっていく話ですが、こちらは、時間の関係で、ほとんど語られませんでした。おそらくこの二つは深いところでつながっていくのではないか、そんな思いで聞きました。
それと、現在の情報化社会における「ネットワーク」、発信者と受信者の関係など、現代的な課題についても、豊田正子及び生活綴り方との関係で論じられていくのだろうと思っています。
<蛇足と知りつつ>
 この研究会に参加するにあたって「綴方教室」を何十年ぶりかで読み返してみました。大きな発見?は、葛飾・四ツ木は武蔵野(江戸)ではなく、下総なのではないか、ということです。私は下総、利根川と鬼怒川にはさまれた台地の村で生まれて、そこで育ちました。豊田正子の綴り方には、私の祖母、母、村の人が良く使っていた懐かしい言葉が多く出てくるからです。たとえば、飯を「ひとかたき」と書いています。私のニュアンスでは「飯一膳」に近いのですが、量的にはもっと多いような感じです。ここを読んだときには思わず「おお」と声を出してしまいました。でも、今はもう使う人はいません。
 もう一つは、人間関係です。ほとんど、口からの情報でした。それで騙されることもしばしばでした。そして人々の姿は、赤裸々でした。自分たちの狭い世界では、本音で生きていました。子供も、そういう中で暮らしていました。狭い世界で、ものすごく強い人間関係の中で、今を、生きていたような気がしました。豊田正子の「父ちゃん」の姿と私の父や身近な人がダブって浮かんできました。懐かしい人々です。
テレビの普及、情報化・消費中心の社会は、画一化、中央化を極限まで、進めます。その中で、急速に失われていくものがある。これをどう考えたらよいのか、考えてしまいました。

鈴木 実さんの記念講演を聞いて

日色 章(綴方理論研究会)
 講演で、鈴木実さんは、「あつっぽさ」について語った。
教師にとって不可欠のものであり、無着成恭、国分一太郎、佐藤文利にそれはあったと。
国分一太郎の長瀞小学校での八年は、綴方と想画の実践に多くの時間を費やした。
・子どもに絵を描かせる指導を、いわゆる美術教育などではなく、絵を描くことを通じて、ものを正しく見つめることと、生活の事実を深く細かく観察すること、それから、絵というものを、生活の中に使う技術の指導であるというように考えていた。
・生活を描いた絵によいものができるように、同じ生活を綴る文によいものができないわけはないのだ。
・(田十五枚、一人の大人の草とりの絵と比べて)一枚は田のくろに、今、父と母と、乳をのませに来たにいさんとちいさないもうとがひるめしをたべているところだ。 小さい妹はたんぽぽの花をにぎって、お母さんのひざにだかれて今お母さんの、はしの先から麦飯の小さい一こごりを口に入れていただくところである。(中略)みんな「ある事」を「あるもの」を「ある時のこと」を「ある生活」をこまかく、深く見て、よく考えてしっかりした文を書いてください(中略)「はたらきに行って、かえった。」より「今働いているところ」を書くようになりたいものだ。
 国分が保存されている文集十六冊の中で、題材だけでなく、書きぶりについても考えていることは、戦後構築されていった綴り方の理論の出発点を探っていくことは、今、重要なことです。
皇国史観と軍国主義の一掃のため焼却処分になりそうになった絵を、「恩師佐藤文利指導の絵を焼却するのはしのびがたく、一枚一枚点検し、戦争画だけを抜き出して涙ながらに焼いた」とした井上庫大郎。
 教料書の黒塗となっていましたことは、歴史の事実としてとどめておきたい。寒河江文雄氏のこれまでの保存への努力とともに。
作文と同じように、図工教育の中で、絵を描くことが以前よりずっと少なくなってきている。そんな中で、想画と綴り方を結合した想画の会の実践は、教育全体の中で注目されなければなりません。大いに期待も、し協力できるところは協力していきたい。
画文集の手元に届くことを待ち望みながら。

<感想発表>

曽我 侑加(豊島作文の会)
 今回2回目の参加となりましたが、とても中身の濃い2日間となりました。もともと私自身は、戦後の生活綴方の復興の過程に関心がありました。戦争によって奪われた人間的な教育が、もう一度教師の手によって取り戻され、編み直された、教育の本質であり出発点がそこにあると考えるためです。
 二日目の分科会では、田中先生から児童詩の歴史についてお話がありました。大正デモクラシーの頃は、まず何よりも子どもの心の解放が求められ、自由詩が盛んになります。しかし、その後昭和恐慌や農業危機に直面し、子ども達に、社会への目を身に付ける必要が生まれ、生活詩へと変化してきます。そして、農村社会の変化の中で、叙事を意識した行動詩へと移っていきます。その後さらに、生活の現実を捉えることが重要視されるようになり、散文的な詩が生まれていくようになりました。この一連の児童詩の歴史は、綴方教育の復興と同じように、その一部として、時代の中で目の前の子ども達と向かい合ってきた教師たちによって積み上げられてきたものなのだと学びました。ただ、私自身「詩」というものが身近になかったため、いざ自分が教育の場に取り入れようと思っても正直ピンときませんでした。こうしたいから、作文指導をする、こうしたいから、詩の指導をする、といったように、作文・詩それぞれの魅力をさらに追求し、自分の中で位置づけていくことが大切だと感じました。
 添田先生のお話では、生活綴方運動弾圧の中で、教師のネットワーク・繋がりも弾圧を受けたことに、今に繋がる問題意識を持ちました。教師の横の繋がりを、国家が恐れていたということです。では今に目を向けてみると、どうでしょうか。私は、教師は個々に孤立し疲弊している実態があると考え、問題意識を持っています。それは、今の教師が家庭や地域、同僚との繋がりを失ってしまったということだと思います。繋がり合うことのできていた当時は、教師は生き生きと現場で働き、国家が恐れるほどの大きな力を持っていたのでしょう。だからこそ今もう一度、家庭や地域、同僚との繋がりを取り戻すことができれば、現状も好転していく可能性があるのではないかと感じさせられました。
 そして最後には鈴木実さんによる、長瀞小学校で大切に保存されてきた想画についての記念講演がありました。1日目に、羽柴さんの素敵な朗読にのせて、想画の鑑賞を行いましたが、日本の原風景と言われる農村社会の温もり溢れる作品の数々に感嘆いたしました。これまで生活現実への認識を高めるためにと、綴方教育ばかりに注目していましたが、必ずしも表現は言葉に限られるわけではないのだと実感しました。生活の様子をきちんと目でとらえて、絵に表現することも重要な意味を持っていると感じました。そして研究会二日目には、見事クラウドファンディングに成功し、想画集の発行も決まりました。本当に素晴らしいことと思います。世界文化遺産の登録へ、着実に一歩一歩近づいていると感じます。
このように大変盛りだくさんな二日間でした。私自身はまだ現場に出たばかり。不勉強で、まだまだ未熟ですが、国分先生をはじめ、多くの先生方が築き上げてきた生活綴方教育の価値をこれからも学び続けていきたいと思います。ありがとうございました。

その咲く花はつよかりき

松下 義一
(日本作文の会・前常任委員長)
国分さんが逝って早32年。田中定幸さんに何度も誘われていた「国分一太郎「教育」と「文学」研究会(第13回)」に初参加し、(一度は山形・東根を訪ねなければ)と思い続けていた国分さんのお墓参りがやっとできた。
 走馬灯の中に甦る遠い光景―私は国分さんの死去の報に接した日の思いを学級通信「ひこばえ」に記していた。
「今、夕刊が配達されて、びっくりしないでね。国分先生が亡くなったそうよ・・・」学校に来た妻からの電話で国分先生の死をしった。せめて夏までは生きてほしかった、と無念でたまらない。
 先生と最後にお会いしたのは、昨年(1984年)暮れの15日。研究会で同席した帰りぎわ、と中までごいっしょしながら「先生の『自然このすばらしき教育者』を何度も読み返しながら仕事をしています。それらをまとめた本(『教室からとび出そう』/国土社)を来年の夏には出させてもらえそうです。原稿を書き上げたら、まっ先に目を通していただきたいと思っています」と、あつかましくお願いしたら、「若い松下君の実践に期待しているよ。がんばりなさい」と励まされた矢先だった。
 昨年の夏は京都での全国作文教育研究大会で、「生活綴方と教科の教育」分科会の助言者として、ぼくの「豊かな自然認識を育てるための作文指導」の報告を聞いてもらい、過分な評価にどんな励まされたことか。その時に、いっしょに撮った写真を見ながら、今ぼくはこの文章を書いている。今年の34回大会は、先生の生まれた故郷である山形が会場になる。どんなに楽しみにされていたことであろう。
 <君ひとの子の師であれば、それはとっくにご存じだ あなたが前に行くときに、子どもも前を向いていく ひとあしひとあし前へ行く> 幾度もかみしめた句であった。子どもにはらきかけていく教師でありたいと、なまける自分を奮い立たせてくれることばであった。13日の通夜で白菊を献花する時、棺の中に見た国分先生の顔は優しげで安らかであった。「松下君、がんばりたまえ」と微笑んで語りかけてくるように感じられた。先生のご遺志を少しでも実践のなかに実らせていく仕事をしたい!そんな想いで、先生に最後のおわかれをした。さようなら。 合掌。
 その日の学級通信には、「しなやかさというたからもの」を引用しながら、国分さんの死を追悼した朝日新聞「天声人語」(1985年2月15日)の切り抜きの記事を転載していた。私が36歳を前にした御所見小学校時代のことである。
 それから5年後、私は日本作文の会の常任委員となり、『作文と教育』の編集を中心に活動に専念してきた。「総合的な学習の時間」が始まった2002年には『ぼくはこんな「総合学習」をつくってきえた』(小学館)を上梓した。墓前で(国分さんのご遺志に少しは報えたでしょうか)と報告させてもらった。当日参拝者全員で墓前で朗読した山形新聞のコラム「談話室」(5月24日)。戦前、治安維持法下で有罪となった国分さん。その記事は「作文(綴方)教育が罪とされた時代」再来を予見させる「共謀」成立に、“時代の空気が尖る中で先達の警句が重みを増す”と結んでいた。
 32年前に菩提樹として植えられ、今は大木となったコブシの下には、国分さんのあの<北に向かいし枝なりき 花咲くことはおそかりき>の句が立てられていた。当日の研究会場で偶然手に入れた『育ちゆく山形の子どもー山形県文集コンクール50年の歩み』(1999年版)と『海図のない航路―山形児童文化研究会の50年』(土田茂範著/2004年)。
2冊の本から、北方性教育運動に国分さんの遺志が継承され、この句の後に<その咲く花は つよかりき>の文言が1983年に書き足されていたことを初めてしった。山形でも我が身に起こった“セレンディピティ”。私の「おもしろ連鎖情報」との出会いの旅はまだ続く。

山形研究会についての見聞録(ルポ)

草木 勝弘(元日本作文の会事務局員)
 15日12時07分、さくらんぼ東根駅につばさ131号の列車は定刻通りに到着した。この列車には、国分真一さんと小山守さん(綴方理論研究会)と、曽我侑加さん(豊島作文の会)も乗り合わせていた。駅前には、今夜宿泊する青松館の送迎バスが待機してくれていたので、早速それに乗り込んだ私たちは、さくらんぼタントクルセンターへむかった。数分で会場に到着し、研究会が行われる会議室に行くと、既に“綴方理論研究会”や“こぶしの会”の人たちによって準備が進められていた。
 最初に田中定幸さんと榎本豊さんに会い挨拶を交わした後に、受付係の田中安子さん(神奈川県作文の会)、榎本典子さん(元板橋区立小学校教師)に会釈して受付を済ませた。
その後、会場を見渡すと、乙部武志先生の姿が見かけられなかったので、田中定幸さんに聞いてみた。すると、奥さんの体調がすぐれないため今回は参加を取りやめたとのことだった。
 また、こぶしの会の会長として何度も挨拶に立っていた大江権八さんの姿もなかった。
 お二人に会うことが出来なかったので、私にとっては心残りで残念であった。
 工藤哲さん(綴方理論研究会)や日色章さん(綴方理論研究会)にも再会し挨拶を交わした後に、用意された弁当を私たちは別室で頂いた。
第一日目のこと
予定の時刻となり、村田民雄さん(国分一太郎・こぶしの会・事務局)の司会で、第13回国分一太郎「教育」と「文学」研究会が始まった。
この会の主催者である「国分一太郎「教育」と「文学」研究会」の会長である田中定幸さんと、「長瀞小学校想画を語る会」の会長である小野正敬さんから歓迎の挨拶があった。     (写真は小野正敬さん)
続いて、東根市教育委員会の教育長である元木正史氏と長瀞地区区長協議会長代理の結城五郎氏が来賓としての挨拶をされた。
この後に、東根市議会の議長をされている秋葉征士さんからのメッセージが紹介された。
【第13回国分一太郎「教育」と「文学」研究会の開催、誠におめでとうございます。心からお祝い申し上げます。
 国分先生を育んだ「ふるさと東根」で、このように長年にわたり、未来の教育に繋がる、積極的な取り組みをなされている皆様に対して、深く敬意を表するものであります。
 国分先生の崇高な教育精神と理念は、市民の中に、そして東根の歴史の中に、連綿と生き続けるものであり、本市の宝とするものであります。
 本研究会のご盛会と、今後益々のご発展をご祈念申し上げ、私からのメッセージといたします。】
 この後引き続き、「長瀞小学校の想画と綴方でたどる昭和の記憶」(二部構成)が始まった。
一部は、「国分一太郎の詩による歌唱」。
斎藤文四郎さん(東根市音楽連盟)、渡邉ゆき子さん、高橋佐知子さん、佐藤由枝さんらが、須藤円さんのピアノ伴奏のもとに、素晴らし歌声を聞かせてくれた。
第二部は、「想画」と「綴方」の鑑賞。
「想画」の作品がスクリーンで上映されるなか、羽柴麻美さん(山形朗読の会「幻耶」)が心を込めた口調で 綴方と詩の朗読を行った。
「想画」のビデオ上映も心に残るものであった。
一日目は70名近く(地元東根市をはじめ山形県、福島県、東京都、千葉県、埼玉県、神奈川県)が集い、山形放送や山形新聞も取材に来ていた。
 研究会終了後、地元の主だった人たちと青松館に宿泊する人たちで、国分一太郎先生が眠る津河山の里の墓地に出向いた。
 墓地の片隅には、大きく成長した「こぶし」の木は、今や存在感を示している。
 国分先生がこぶしの「花」を愛していたことから、27年前(1990年)に国分恵太さんの父親である正三郎さんが苗木を植えたもの。
1985年(昭和60)当時に発足した「国分一太郎先生を偲ぶ会」の初代会長の堀江敏雄さん(元東根市助役)をはじめ、奥山昭男さんなど主だった方も苗木を購入し、それぞれ自宅の庭などに植えたと、国分恵太さんが教えてくれた。
「こぶし花/北へ北へと/むいて咲き/北へなにかを/のぞむらし」。
 こぶしの木の傍に立つ真新しい案内板。これは最近建て替えたとものだと国分恵太さんの説明を聞き、改めてその案内板を見た。
「北に向かいし 枝なりき 花咲くことは おそかりき 国分一太郎 その一族と共にこの大地に眠る」
国分先生が眠るお墓に一人一人線香をたむけて静かに手を合わせた。
 そのあと、榎本豊さんが事前に印刷した山形新聞のコラム「談話室」(5月24日付)に掲載された記事を榎本典子さんが墓前で朗読をされた。その記事の内容は以下の通り。

▼▽がんの告知はないままの入院だったが、死期が迫るのを悟る。生活綴方(つづりかた)教育運動の推進者で児童文学者の国分一太郎さん(東根市出身)は退院後に「小学教師たちの有罪 回想・生活綴方事件」の執筆に取り掛かった。
▼▽1940年代、運動に取り組む全国各地の教師が治安維持法違反容疑で摘発され、裁判で有罪になった。回想記はその全容と特高警察のでっちあげ捜査、国家権力による思想弾圧のからくりを浮かび上がらせる。刊行から5カ月後、85年2月に国分さんは生涯の幕を閉じた。
▼▽無辜(むこ)の教師たちの内心を土足で踏み躙(にじ)り、学校現場から追い払った官憲に向ける冷厳なまなざし。「真実を書き遺(のこ)したいという執念がにじみ出ている」。その生きざまと最期を作家の柳田邦男さんは「遺言としての真実の記録」として自著「新・がん50人の勇気」に記した。
▼▽組織犯罪処罰法改正案は与党が採決に踏み切り衆院を通過した。改正案は犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ「テロ等準備罪」を新設する。内心の自由は脅かされないか、恣意(しい)的な捜査への懸念も残る。時代の空気が尖(とが)る中で先達の警句が重みを増す。
 現代の治安維持法とも言うべき共謀罪(組織犯罪処罰法改正案)が6月15日に成立し、7月11日日に施行された。
「内心の自由は脅かされないか、恣意(しい)的な捜査への懸念も残る。時代の空気が尖(とが)る中で先達の警句が重みを増す。」という最後の文言が胸に迫ってくる思いだった。
 今年の墓前の読み上げ文をこの記事にした経緯を榎本豊さんが教えてくれた。
 それによると、国分恵太さんからメールで5月の下旬に送られてきたものを、綴方理論研究会で検討した結果とのことだという。時節柄、実に適切な対応だと思う。
<夜の交流会>
 夕方6時45分から青松館で始まった。
工藤哲さんと小山守さんが司会を務めた。
会長の田中定幸さんの挨拶に続き、奥山昭男さんが国分一太郎・こぶしの会を代表して、歓迎の挨拶があった。
続いて、那須備逑さん(元日本作文の会・常任委員)の乾杯(献杯)の音頭で会食となった。
 暫くしてから、交流会に参加した一人一人からの近況報告を兼ねた挨拶が行われた。(氏名のみの・順位不同)
安部貴洋さん(山形県立米沢栄養大学 准教授 )、梅津恒夫さん(元高校教師)、小野正敬さん、青木篤さん(青松館オーナー)
(「国分一太郎・こぶしの会」関係)
奥山昭男さん、天野禎二さん、大江義晴さん、伊佐良夫さん、安孫子哲郎さん、村田民雄さん、庄司天明さん(東根文学会)
(国分家)からは、
国分真一さん、国分恵太さん、国分洋治さん(国分一太郎さんの遠い親戚)、
(県外から)
藤田誠也さん・美智子さん夫妻(福島・伊達市)
(初参加者)
松村真さん(山形大学 准教授)、松下義一さん(日本作文の会・前常任委員長)、添田直人さん(豊田正子を愛する会)
(「綴方理論研究会」等の関係)
田中定幸さん・安子さん夫妻と子息の健太郎さん、榎本豊さん・典子さん夫妻、日色章さん、工藤哲さん、小山守さん、那須備逑さん、今井成司さん、曽我侑加さん
 交流会は、国分真一さんの閉会の挨拶をもって終了した。

第二日目のこと

 昨日に続いて、さくらんぼタントクルセンターを会場にして、午前9時から始まった。
梅津恒夫さんの司会により、田中定幸さんが「『日本の児童詩のはじまり』を、今に生かす」と題し、資料をもとに報告された。
 資料①は、「日本の児童詩教育のはじまり」~国分一太郎・東京学芸大学特別講義「生活綴方と昭和国語教育史」より~と題した文書。(A4判2段組の裏表に印刷されているもので17枚分)国分先生が73歳の時に東京学芸大学で7回にわたって特別講義された内の6回目のもので、国分先生が学生に話された内容がビデオテープに収録されていたものであるという。これを、田中さんが文字化したうえに補足資料を付け加えて作成したもの。
 資料②は、「日本の児童詩教育のはじまり」を、今に生かす―国分一太郎・学芸大学特別講義(㈥)から学ぶ―と題した文書。(報告メモとして12枚分(A4判裏表に印刷されている)。この報告メモには、特別講義の内容以外の資料を補足する形で纏めてあった。
 限られた時間内で、報告メモをもとに国分先生の特別講義の内容とそこから何を学ぶか、解説を加えながら逐一報告された。
 安部貴洋さんも「分科会報告」の中でも指摘されているように、田中さんの報告は、重要な内容を含んでいるだけに、時間不足のために十分な説明とはいかなく終わってしまったことが実に残念であった。しかしながら、田中定幸さんの国分一太郎の研究にかける情熱と活力・活気には敬服させられた。
 続いて、榎本豊さんの司会のもとに、駿台予備校講師、法律事務所勤務の添田直人さん(葛飾区・豊田正子を愛する会)が「生活綴方運動の一つの里程標」-『綴方教室』(豊田正子)の<読み手>がたちまち<書き手>となることから-と題した報告を行った。
 配布された資料の中に、豊田正子と国分一太郎を対比させて作成された年表(1911年から1961年までの世の中の出来事と豊田正子と国分一太郎に関する出来事)は、物事の推移・展開の一段階を示すしるしとなるものとして、私にとっては興味をひくものであった。また、豊田正子に関する膨大な資料(A4判27枚分)の中に、特に私が注目したのは、次の点である。豊田正子が角川文庫判『綴方教室』の「あとがき」で【あんなに私自身の言葉を變改したり、削ったり、眞意をひどくゆがめたりした先生(大木顕一郎)】と記述している箇所。それと、国分先生が豊田正子の『綴方教室』を取り上げて、【綴り方の個人指導というものを考えたばあい、角川文庫『綴方教室』はひじょうに大事な教訓となる本だと、いまおもう。(1974年11月)】と記述している部分。これは、『国分一太郎文集』(全10巻・新評論)「文集8巻 人のこと本のこと」(1984)の中にあるもの。
 添田直人さんが、豊田正子の研究に関りを持つきっかけとなったのは、高校時代の同級生が郷土史研究家として活躍(生前から豊田正子と交流)していることだったという。
そのことから豊田正子の研究にかかわりもち、この度の報告ということになった。
 私にとって「豊田正子」については、名前程度の知識しか持ち合わせていなかったが、今回のこの報告に接し、「豊田正子」については多くのことを学ばせてもらうことができた。

 午後からは、鈴木 実(山形童話の会)さんによる記念講演が行われた。
「長瀞小学校の「想画」と「綴方」-佐藤文利と国分一太郎を辿りながら-」と題して。(配布資料は、A4判縦3段組みで裏表に印刷された10枚分の内容である。)
 榎本豊さんのブログ「えのさんの綴方日記」で、次のように紹介している部分がある。
「今回は、9月発行予定の画文集『昭和の原風景』―長瀞小学校児童の絵と文による昭和の記録―とあわせて、当時、長瀞小学校で行われた「想画」と「綴方」教育の実践的意義を再確認し、今と、未来につなげる研究会になるように企画しています。」
まさしくこの企画に相応しい内容であった。
 鈴木実さんが報告された資料は、『国分一太郎「教育」と「文学」研究』の紀要に全文掲載し、今回研究会に参加されなかった人も含めて、多くの人に読んでもらいた内容だと強く感じた。
 一方、長瀞小学校画文集刊行会として、代表の小野正敬(長瀞小学校想画を語る会会長)さんや事務局の村田民雄さん(こぶしの会・あすなろ書店)が、発刊に向けて着々と準備を進めていることも、あわせて報告がなされた。
 講演終了後の全体会は榎本豊さんの司会で行われた。
分科会報告として、安部貴洋さんと今井成司さんからあった。そのあと感想発表が、曽我侑加さんと松下義一さんからあった。
最後に、国分真一さんが終わりの言葉を述べて、今研究会は予定通り終了した。
 昨日同様この日も70名近くの参加者があり、山形放送や山形新聞も取材にきていた。
今研究会を振り返って、榎本豊さんが研究会事務局の立場から次のようにコメントしてくれた。
「今研究会の参加者の特徴は、昨年までの長瀞公民館〈元長瀞小学校〉は、さくらんぼ東根駅からの交通の便がよくなかったが、今回のさくらんぼタントクルセンターは比較的便がよく、参加者の数も増えた。
想画とつづり方の画文集を、1冊の本にという仕事があり、やがてはそれを、地域の財産として、「世界記憶遺産」にしたいという願いがあることも、参加者の意識を高めた。
行政の方からも、来賓のご挨拶として、元木正史さん(東根市教育委員会教育長)と、結城 五郎さん (長瀞地区区長協議会長代理)と2人の挨拶もあり、お祝いのメッセージとして、秋葉征士さん(東根市議会議長)の文が読み上げられた。
地域ぐるみで会を盛り上げようとしている姿勢が見られた。
地元の現職の教職員の参加が少なかったが、国分恵太さんの高校時代の後輩の山形大学准教授、村松真さんの参加が、初めてあった。今後山形大学の学生の参加に期待したい。
昨年は、大学生で、今年は教師1年目の曽我侑加さんが参加し、閉会式で、感想発表をしてくれたことは、若い人へのつながりになる。日本作文の会の前委員長の松下義一さんの初参加もよかった。
山形新聞・山形テレビ等のマスコミの方も、取材をかなりしていた。会員の田中定幸会長や曽我侑加さんがインタビューに応じていた。
昨年の暮れに、山形新聞に綴り方教師・国分一太郎を、3回にわたって、大きく取り上げたことも大きい〈鈴木実さん執筆〉。
 今回記念講演をし、戦前の「想画教育とつづり方教育」が、光り輝いていたお話は、タイムリーな企画であった。」
――――――――――――――――――――
 この「研究会ルポ」を書き終わるにあたって、私的なことであるが書き留めておきたいことがある。
 それは、今研究会の参加にあたって特別なる配慮をして下さった田中定幸さんや榎本豊さんには心から感謝したい。また、今回は諸般の事情により参加が叶わなかった早川恒敬さん夫妻の後押しもあったことにも感謝したい。
 更に、国分恵太さんや奥山昭男さんが、多忙の中にもかかわらず、私の電話やメールでの取材に快く応じてくださったこと。そして、今回の「ルポ」や会報に、小山守さんや田中健太郎さんが撮影した写真を幾つか活用させてもらうことが出来たことにも感謝したい。
 那須備逑さんと宿舎では同部屋になった縁もあり、豊田正子について後日のメールでのやり取りの中で、
今でも印象深く残っているものがある。それは、【生活綴り方の学び集団の土壌から培われたというよりは、大木顕一郎自身の文学的志向が豊田正子の異才の上に体現されたにすぎないとみます。ただし少女が書いたことになっている私小説作品として高く評価します。】とのコメント。
これは、私の中では気づかなかった指摘であり、敢えて書き記しておきたい。
 私にとって今回の参加は数年ぶりのことではあるが、参加して良かったと思える研究会であった。
最後に、研究会でお会いできたすべての方々にも感謝・感謝である。

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